この世は理不尽である


この世は理不尽である。
これが世の大原則である。

人にはそれぞれに課せられた役割が備わっている。
その役割は何であるのか、これは死んだ時に初めて明らかとなる。

交通事故に遭ったり、病になったり、障害者となったり、殺人を犯したり、様々である。
しかし、どの様な人生を辿ったとしても結果的には世の為に貢献しているのだ。

その間、どの様な人生を辿るかは問題ではない。
最後には全員役割を達成し、同じ死を迎えるのである。
そういった意味からすると人は皆、平等である。
自分に課せられた役割の価値も本当は同一である。
いい人生、悪い人生というのは生きている間の価値観が生み出す幻。
その様なものは生きるという本質の前では一切関係ない。
あるのは己に課せられた役割を果たす、ただそれだけ。
その役割が何であるかは最後まで生きてみて判明、それまでは決してわからない。
役割を全うして最後に達成するというプロセス。
これは全員が必ず達成する。
その内容に優劣はなく、故に幸も不幸もない。
人は生まれながらにして既に幸福であり、不幸であるとも言える。
ならば幸福であると考えた方がいいだろう。
例え絶望的な状況でも、それは人の勝手な都合で解釈した価値観が生んだ幻。
どこか知らない世界からそんな事はおかまいなしに、次から次にポンポン誕生させてくるのだ。
人の意思等関係ない、否応無しに生かされるのだ。
どっちでも一緒なのだから、「人は生まれながらにして既に幸福である」が正解だ。
役に立たない人等、一切いないのだから。

動物なんかはもっと理不尽だ
ゴキブリやハエなんかは否応無しに人間に殺されるのだ。
家畜なんかも食われる為に理不尽な飼い方をされて殺されるのだ。
野生の世界でも突然襲われる弱肉強食の世界、何故私が食べられないといけないの?等言ってられない。

人間社会においても例外ではない。
ただ、この理不尽で不完全な世の中を改善して行く事が出来る唯一の可能性が秘められている場こそが人間社会である。


全ては因果関係で繋がっている。

何の罪もない人が理不尽な理由で殺される事だってある。
その場合、被害者は世間にその様な悪が蔓延っている事を知らせる大義を果たしたのだ。
遺族はその時点で新たな意思を引き継ぐだろう。
それも役割なのだ。
一方の殺人者は世間にその様な悪を働く人間がいる、世の中は理不尽なのだという事を知らしめる役を自ら買って出たのだ。
どうすればこの理不尽な世の中をもっと良くして行くかを考えさせる為に、世間の注意を引きつけ、そのきっかけとなり、その積み重ねで人類は進化し、変わって行く事が可能。
犯人が死刑で死亡した時点で、その犯人も己の人生の役割を全うした事になるのだ。
無期懲役の場合も、刑務所で働く人や、犯罪心理学関係者を食わしたり、益となる情報を与えて貢献しているのだ。
人は生きている以上、まだ己の役目を完全には果たしていない。
100%果たした時にこそ死が訪れるのだ。
どの様な死に方であれ、決して無駄死にというのは無いのである。
自殺にしてもそうで、自殺原因によっては強力な主張でその自殺原因を改善していく抑止力にもなる。
結局、その人に役割が備わっていれば自殺する事になるだろうし、備わっていなければ自殺出来ずに何らかの形で生き残る事になるだろう。
自殺願望をあちこちでばらまいている内は自殺問題を考えるきっかけを与えるであろうし、それがきっちりと役目を果たしているのだ。
病にしても同じ、医学、病院関係者に貢献しているのだ。
死んで尚、葬儀屋等にも貢献する。


人が生きていく意味

この世は元々が理不尽な世界である。
学校、会社、家庭内、政治、法律、宗教
どこの世界にもいつも理不尽が転がっている。
それを各々、どうやって克服して行くか、これが人類に課せられた共同使命なのだ。
その小さな積み重ねが集まり、やがて国を動かし、世界が変わって行くのだ。
それが本質的な人間の生きる意味。
富を得る行為というのは道具に過ぎず、それは一種の目的とはなり得るが、生きる本質ではない。
道具を増やし、それを何に活かすのか
道具を増やす行為も結局最終的には己の役割を果たす事に繋がるのだ。
最終的に理不尽を克服せずに真の喜びはあり得ない。
役割は死んだ時に判明する以上、人生は結局最後まで生きてみない事にはわからない。
これに尽きる。

昔から病気、戦争、略奪、殺人等、非人道的な行為は日常茶飯事。
それが、歴史と共に徐々に改善されて来て現在に至っている。
昔の野蛮人に比べたら現在はこれでも随分とマシになって来ているのだ。
世界基準で文明、法律にしても積み重ねにより良く発展して来ているのだ。

人は自分に課せられた役割を終えた時に死ぬ。
その様になっているのだ。
それが運命であり、運命には逆らう事は出来ない。
坂本龍馬が死んだのも、役割を100%終えたタイミングで死んだのだ。
坂本龍馬が特別ではない
彼の場合の役割はわかり易い例であるが、その他の人も皆同じ様に完全に役割を終えた段階で死んでいるのだ。
その人生の内容に優劣はない。
偉大な人生、いい人生、不幸な人生、これらは全て我々の感情が解釈した価値観に基づいたものであり、本質は我々の感情を無視した所にあるのだ。
その本質からは坂本龍馬であれ、あなたであれ、全く同じ価値なのだ。

死とはゴールであり、達成
達成がイコール死なのだ
死とは自分でコントロール出来ない所にあり、やがては誰もが到達する、役割を終えて祝福されるべき地点なのだ。

今現在、生きているというのはまだ役割を終えていないからこそ生きているのである。
どの様な役割であるかは皆それぞれ違っており、誰一人として同じ役割の者はいない。

幸運な出来事に喜び、殺人者に怒り、被害者を哀れみ、平和な毎日を楽しむ。
その当事者となる事もあるだろう。
この瞬間瞬間の喜怒哀楽を感じる事こそが生きるという事である。
そうやって喜怒哀楽を繰り返し、最後に死ぬのだ。

人類はこれからも喜怒哀楽のコントロールでこの理不尽な世の中を少しでも良くして行こうとする事を続けていくだろう。
そして、遠い未来、完全な世界を実現するに違いない。
その時、本当の全ての答えを知る事になるのだ。


救いはあるのか、正しい生き方とは

救いを求める必要等ない。
生まれた時から既に救われているのだ。
後はひたすら己の生を全うするのみ。
人それぞれに置かれた状況からどう生きていくのか
それが試されているのである。
皆違うのである。
誰かと比べ、あの人の様になりたいと思ってもなれないのだ。
人を羨んだり妬んだりする必要等全くない。
そこを勘違いすると人生は勝ち負けになってしまうのだ。
一度その価値観に囚われてしまうと無限地獄に陥ってしまい、真の人生を楽しめなくなってしまう。
人は人、自分は自分、人と自分では明確に異なるのである。
人の真似をしても同じ様にはならない。
どんな髪型、どんな服装が似合うのか
それは己で見つけるしかないのである。
外見だけではなく、生き方そのものも全てそうだ。
己に与えられた環境、その中でオリジナリティを完成させるのだ。
どの様に生きるのかは自由である。
どの様に生きたとしてもちゃんと役割を全うし、死は約束されているのだ。
明日生きている保証はどこにもない。
死は突然やってくる。
あるのは今だけ、喜怒哀楽をひたすら繰り返し、その瞬間に生きる事のみ。
人と比べるのではなく、己の中で自己完結するのが真の人生である。